
この世界で、われわれは他人と同時刻に時間を共有していると思っているが、勘違いである。そのように見えるだけ。そのように見えるのは、相手も人間だから。相手も、自分と同じものを宿していると思うからだ。VTRをみているがごとく、自分に宿った時間の流れを再生しているだけである。時間というのは、真の世界で共通に流れていない。流れているのは、同時刻ではなく自分のなかだけである。輪廻転生という概念は、ここから生ずる。
われわれが死んだとき、この世界はわれわれの肉体というフィルターを通してみていた存在が姿を消し、真の姿(ワンネス)で現れる。そうすると、時間の流れが存在しなくなります。時間の流れは、人類の勝手な解釈によるもののため。だから、われわれは、自分の人生を繰り返すというのは、誤謬があるが、自分の人生は死んでもなくなるわけではない。ここで、自分と伝えましたが、自分というのは死んだあとも引き継がれない。まず、肉体も記憶も継承されないのだ。しかし、この肉体や記憶を消してもなお自分と呼べるものはあるのです。それが、意識であろう。この意識が自己を肯定する。生きていると感じさせる。これは、全人類共通にもっているものである。そして、もしわたしが死んでも、肉体や記憶を継承できなくても、真の世界になっても意識はなくならない。どの人類にも意識の継承はされる。
一度、この意識についてまずは説明をしないといけない。自己の規定で、意識という概念が、もっとも表現しやすいだろう。ただ、この意識、物質的に表現できるものではなく、客観的に存在しているものではない。主観にしか存在しない。そして、意識の性質を表すものとして、「今、ここ」というのがあげられる。「今、ここ」というのは、時間の流れでいえば、現在をさし、その瞬間をさします。そして、存在も含みます。無意識的にしていることは、存在しても存在を感じていません。感じていないというよりは、強弱があるといったほうが正しいかもしれません。ただ、存在は意識されることで強力に浮かび上がります。意識は、スポットライトのように真の世界の一部の真実を「今、ここ」に照らしだす。照らされたところが、存在として浮かび上がる。瞬間、瞬間に「今、ここ」という現在に存在が姿をあらわすのです。
「われおもう、ゆえにわれあり」というデカルトの言葉があります。自我を表すのに、ふさわしい言葉で、意識と同じものを指すと思われます。私が今、なにが自己であるか精神世界を探っている。思考だろうか?記憶だろうか?否、この今、そのように探索している存在、そのものが自己であると発見した。これは、時間という概念があることで、内省により過去の自分にアクセスでき、精神世界の自己の存在に気付くことができたのでうまれました。
昆虫には、精神世界は存在しない。それは、時間の流れというのを 概念として獲得していないからだ。「今、ここ」に存在は感じることはできる。しかし、過去とか未来を振り返れない。昆虫が、未来を想像して不安にならない。その瞬間瞬間に反応して生きる。時間の流れという概念を獲得していれば、過去も存在として表すことができる。過去という存在をつくることができる。それができることで、自己の内面も客観視することができる。「われおもう、ゆえにわれあり」のように、気づくことができる。精神世界はそうしてうまれた。
精神世界は、この世界に物質世界と同時に、「今、ここ」に存在するわけではない。精神世界は過去的な存在。「今、ここ」から振り返って確認してつくられた世界。自分の内面を存在させた。存在させることに、気づく内省ができなければ、自己と呼べない。時間の概念があることで、精神世界がうまれた。この時間の概念と「今、ここ」に存在させることを伴って、自己とよべる。意識という概念では、誤謬を与えるので、この自己を時在(じざい)と呼びます。時在は、時間という概念と存在という概念を合わせた表記になっています、これはそのままのとおり、意識の「今、ここ」に存在させる概念と時間の流れの概念を伴うことを表します。それが、自己をうみだしたのです。この時在というのが、生物の意識を区別する判断の一つになる。精神世界は、人類が存在させたのです。
輪廻転生の話にもどりますと、時在という現象が輪廻の概念をうみだしているのです。時在というフレーズが難しければ、脳内変換で少し違いますが、意識に変えてもいいです。この時在は、自己の存在を確かめられるということ。それが、肉体や記憶がなくなっても、時在という現象はなくならない。時在は、世界を感知しているし、それを知っている存在だからです。
もう少しかみ砕いて言いますと、存在という概念について考えてみますと、存在とは、存在さす存在がいて、初めて存在します。つまり、自己という存在を前提としている。自分がいないときに、存在は語れない。「存在だけで存在しない」。存在させるものがなければ(観察者ともいう)、シュレディンガーの猫のように、確定しない状態であるだけだろう。それを存在とよべない。同様に、これは死後の世界も同じことがいえる。死後の世界には、存在させるものがいない、観察者がいない。これを、存在するといってはならない。存在自身、語りえない。存在という概念は、人類がうみだしたものである。死後、存在と関係のない真の世界(ワンネス)が現れる。ここには、時間の流れがない。もともと、あったりなかったり、産まれたり死んだりは、時間が流れているから生じているのだ。時間の流れがなければ、あるだけである。時間が流れているのは、生物だから。死んだら、時間の流れから解放される。存在を語るとき、存在は時間の流れが存在するところしか発生しない概念である以上、生きているときしか発生しない現象である。
ゆえに、わたしが死んでも、存在という現象は生きているときしか発生しないので、もし、死んだとしても、肉体の制限を離れ時間の流れを無視できるようになったことで、以前の自分を含むすべての人類にアクセスできるようになる。逆にいえば、そういうアクセスしていない状態でないときは、存在しえない、時間も流れていない状態であること。われわれの概念で言うと、無である。否ではない。存在という現象は、生きているときしか発生しないので、逆に死んだときの状態を想像するなら、語りえない。ゆえに、常に時在は存在し続ける。未来永劫、生命の灯はなくなることはない。輪廻転生とは、時間の流れと存在の概念が大きくかかわる。いわゆる、解釈である。世間一般の輪廻転生観とは少し違うかもしれない。人類は、この世の中を解釈してみているだけである。
最後に、ワンネスは、肉体を持つ限り、われわれがその存在を感知できないものではあるが、想像する方法はあります。それは、時在を否定する方法です。この方法が、ノンデュアリティ(非二元)です。時間と存在の概念は、われわれを深く悩ませている現実という世界観をつくりだしています。この時在を否定することで、世界がワンネスとして現れるのです。
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