わたしとこの世界が分離していることや、前章でいっていた存在という解釈を述べなければなりません。まず、前章でシュレディンガーの猫をワンネスの世界の概念を理解するのに用いたのですが、そのシュレディンガーの猫の猫自身、われわれが普段、一般的に用いてる存在の概念とはいえません。しかし、真の世界はそのような姿で本来、あるのです。シュレディンガーの猫のように生きていることも死んでいることも包括して、ある。ここでは、あえて存在すると用いずに、ある。と用います。われわれの存在の概念ではないからです。

では、存在の概念とはもしかしたら、解釈ではないのか?察しの通り、解釈です。世の中、存在していることが真実であると思っているところがある。それは、本当にそうだろうか?この存在しているということ自身、幻かもしれないとか、正しいとかの先入観を捨てて、この存在というのをもっと疑うべきである。このひとつなぎのワンネス、真の世界からみれば、人類の世界観のほうがおかしい。

存在するという概念は、観察者がいて成り立つ。そこに、あると感じられなければならない。存在するというのは、自分とその対象、一対一の構図がうまれる。これがないと、成り立たないのだ。ワンネスを理解するために、妨げとなるものとして、この自分対世界、という構図であろう。心と身体、精神世界と物質世界、デュアリティ(二元)である。こういう構図でなければ、われわれは、世界を把握できない。世界という存在を感じられない。解釈できない。

デュアリティ(二元)について、これは人類がこの世の中で認知の仕方としてうまれたもの。だから、本当の世界には存在しない。一方が善であれば一方が悪であるのは相対性の考え方。始まりがあれば終わりがあるのも。宇宙の始まりや終わりも然り。あるとか、ないとかも然り。人類がこの世界を理解するためにうみだした認知の仕方。 ここをしっかり理解していただきたい。時間の、始まりと終わりがあると、勝手に人類が決めつけている。存在も、あるとかないとか勝手に決めている。結論からいうと、言葉で伝えると誤謬があるが、まず、時間は流れていない。始まりも終わりもすでに存在してしまっている。存在も、ただあるだけ。ないというものはない。人類の認知がそのようにあったり、なかったり、時間が流れているように見えるだけ。これは、人類が生きているから、生きるために、欲により、無秩序な世界を秩序だて、そのように世界を区分けして解釈することにより、生存能力を高められるのだ。逆に、自然発生により生じた生命が、自然淘汰により、意識活動を獲得。自己内省ができるようになった生物が発生。時間と存在に気付く。神秘化される。今、ここ。神という存在も昔、気づかれたが、神秘化は解けた。時間と存在も時間の問題であろう。特別で神秘的なものではない。

結局、この世界に、秩序があるようにみえるのは人類がそう理解しているから。そう、みなしているから。相対のもとに理解しようとしているので、結局、関係性の問題だけで、この世の中の裏側に法則性のある真実が潜んでいるとかはまったく、ない。 あることの相対性として、ないというものを想像しているが、それは、人類の勝手な思い込み。あるにたいしては、ないという世界はない。精神世界の中での概念としては存在するだけである。

真の世界に対して、存在という概念では語れない。真の世界に対等なる存在はいない。並び立つ存在はいない。ひとつで不足ない完全なもの。わたしと世界、と並び立っているのは、人類の一方的な解釈からである。真の世界を理解するためには、自分という脱却をしなければならないが、したとしても感じることはできない。想像は可能である。ワンネスというのはつきつめると、この真の世界観を事実としてどれだけ受け止められているか、であろう。ノンデュアリティ(非二元)というのは、自己の脱却である。デュアリティ(二元)からの解放。それに対し、ワンネスは、ひとつのもの、真の世界である。ワンネスがすでにある世界そのものを指しているのに対して、ノンデュアリティ(非二元)は、現在、われわれが現実世界として解釈した世界であるデュアリティ(二元)にたっていることを前提として、そこからの脱却をさしている。ノンデュアリティ(非二元)は、人類を立ち位置にした真の世界の概念である。

二章で時間の流れは、解釈であると述べました。時間の流れがあるから、生物が産まれたり死んだり、物ができたりなくなったりしていると感じる。存在も解釈であるなら、存在しているということも、おかしい感覚なのではないか。もともと時間の流れが真の世界(ワンネス)では、流れていない。そうすると、真の世界では、産まれたり死んだり、あったりなくなったりしない。すべては、あるだけである。あったりなかったり、死んだり産まれたりしているように見えるのは、人類の解釈による時間の流れでそう見えるだけ。あったりなかったり存在というのも、人類が生み出した解釈で、もともとはすでに、あるのだ。あるだけである。

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